ホーム Fuji 動揺はしても動揺せず、日本のバドミントンペアはパリの金メダルを目指す。地震を経験した長年の友人は成功への精神的な強さを得た。

動揺はしても動揺せず、日本のバドミントンペアはパリの金メダルを目指す。地震を経験した長年の友人は成功への精神的な強さを得た。

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読売新聞
オリンピック出場を目指すバドミントンダブルスチームの保木拓朗選手(右)と小林優吾選手が5月に富山県高岡市で練習している。

昨年5月、富山県の体育館で、パリ五輪に向けたバドミントンダブルスの保木拓朗選手と小林優吾選手のチ​​ームが、日本代表監督の監視の下、報道陣に公開された練習で激しいラリーを繰り広げた。

愛称で「ホキコバ」と呼ばれる保木選手と小林選手がパリでメダルを争うのは、スポーツ界で遭遇するどんな困難をも超える試練を乗り越えてさらに強くなった彼らの精神力と決意の証しだ。

2011年、2人が福島県富岡町の同じ中学校を卒業したその日に、東日本大震災が発生。家族は被災地から避難を余儀なくされ、2人は一時離れ離れになった。

最終的に二人は再会してダブルスチームを結成し、13年間の努力の末、オリンピック出場権を獲得した。28歳の保木と29歳の小林は、震災が自分たちを「強くした」と認めており、パリでの成功を通じてこれまで自分たちを助けてくれたすべての人々に恩返しすることを目指している。

2人はトナミ運輸のバドミントンチームに所属し、同社が本社を置く富山県高岡市で練習している。保木選手は前線でレシーブし、小林選手は後方から勝利をもたらすスマッシュを放つ。

山口県出身の保木さんと宮城県出身の小林さんが初めて出会ったのは、2008年、福島県のバドミントンの強豪校・富岡第一中学校に入学し、一緒に寮生活をしていたときだった。

2011年3月11日午後2時46分、学校の卒業式が終わっていた小林さんは校外にいたが、強い地震に見舞われた。迫りくる津波から逃れるため、高台に避難した。「死にそうな気分でした」と、当時の恐怖を振り返った。

保木さんは当時、寮にいて被害はなかったが、次に進学予定だった富岡高は東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域内にあり、運動部の活動は全面的に停止した。

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左から保木拓郎さんと小林有吾さんが5月に富山県高岡市で笑い合っている。二人の仲の良さは彼らの強みの一つだ。

当時、富岡高校の監督だった大堀仁志氏は、彼らがプレーできる場所を探すのを手伝い、最終的に保木氏をトナミ運輸のチームに引き入れた。現在、大堀氏はそのチームで監督を務めている。保木氏は、厳しい練習を通じて、現役の代表選手のスピードやスポーツのトップレベルを体感した。

一方、親戚宅へ避難していた小林さんは、近くの高校の練習に参加することを許された。しかし「自分が高いレベルでプレーできるのは富岡高校しかない」と自分に言い聞かせていた。

地震から2か月後、富岡高校バドミントン部は福島県猪苗代町で練習を再開した。コートで一緒に練習していた選手の中には、後に世界ランキング1位となるシングルスのスター、桃田賢斗選手もいた。大堀は保木と小林とダブルスを組んだ。

寮となった施設には原発周辺からの避難者も住んでいた。その姿を見て、2人は「このまま練習していいのか」と疑問を抱いた。だが、大堀さんは「試合に出て勝ち、模範となるのが君たちの使命だ」と励ましてくれた。

以来、保木選手と小林選手はトナミ運輸で年に数回トレーニングを重ね、高校3年生の時にはインターハイで優勝。卒業後の入社後も躍進を続け、2022年には世界ランキング1位に輝いた。

しかし、災害との遭遇はこれで終わらなかった。今年1月1日に発生した能登半島地震は富山県にも被害をもたらし、保木さんのアパートも液状化で傾き、住めない状態になった。

自分たちが最善を尽くすことで被災者に勇気を与えることができれば、オリンピック出場はより意義深いものになるという彼らの信念は、さらに強まった。



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