ホーム Fuji 数十年後、日本の松本サリン事件の犠牲者は記憶に残る。オウム真理教による最初の大量殺人から30年が経過した。

数十年後、日本の松本サリン事件の犠牲者は記憶に残る。オウム真理教による最初の大量殺人から30年が経過した。

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読売新聞
伊藤洋子さんは6月20日、千葉県南房総市で息子智美さんの墓参りをしている。

長野県松本市 — 長野県松本市でオウム真理教が実行した致命的なサリン神経ガス攻撃から30年が経過した。


読売新聞
1994年6月29日に撮影された、サリンガス攻撃が起きた長野県松本市の住宅街の航空写真。

オウム真理教による最初の無差別大量殺人事件では、1994年6月27日深夜、オウム信者が住宅街で猛毒のサリンガスを撒き散らし、8人を殺害した。その後、同教団は1995年に東京地下鉄で起きたサリンガス攻撃(14人が死亡、6,000人以上が負傷)など、一連の犯罪を起こした。

伊藤智美さんは松本事件で殺害されたとき26歳だった。事件の影響がほとんどの人々の記憶から薄れつつあるにもかかわらず、彼の母親の悲しみは今も強く残っている。

智美さんは、太平洋を見下ろす千葉県南房総市の丘の上の墓に眠っている。

最近の訪問で、84歳の母親、伊藤洋子さんは、息子と同じ身長1.78メートルの墓石を愛情深く撫でた。

「私はまだ息子の夢を見ます。夢の中では、彼はいつも子供のように見えます…」とヨーコさんは言う。

智美さんは和田町(現南房総市)に生まれ、両親が共働きだったため祖母に育てられた。道内の高校に進学後、北海道の大学で薬学を学び、卒業後は製薬会社に就職した。

入社後すぐに受けた薬剤師試験に合格した智美さん。当時、社内研修に参加していた陽子さんが智美さんに代わって保健所へ免許証を受け取りに行った。

「息子の努力の証なので本当に嬉しかった」と洋子さんは言う。その時は、自分が作った免許証のコピーが息子の思い出の品になるとは思ってもいなかった。


伊藤智美さんの遺族提供
Tomomi Ito

友美さんは松本市内の職場に配属された。94年6月28日朝、陽子さんは勤務先の役場で、息子の名前がテレビで報道されたと聞き、夫の輝雄さんとともに松本へ向かった。

大学病院で夫と会った時の友美さんの表情は穏やかだったと彼女は言う。「毒ガスで亡くなったと聞きましたが、よく分かりませんでした」。あまりの緊張のせいか、彼女は涙を流さなかった。

ヨーコさんによると、トモミさんは家族を大切にしていた。初めての給料の一部を祖母に渡し、母の日にヨーコさんにハンカチを贈った。

ヨーコさんが悲しみを忘れることができたのは、町役場で地元の歴史を編纂する仕事に没頭していたときだけだった。

オウム真理教が犯罪を犯していたことが発覚した後も、教祖の松本智津夫(別名麻原彰晃)は犯行について一度も謝罪せず、洋子さんはそのことに対して恨みと虚しさを抱き続けている。

ほぼ毎日、松本さんの写真をみては、松本さんと立場が入れ替わればよかったのにと口にしていた朋美さんの祖母は、2001年に94歳で亡くなった。松本さんの死刑執行を早く望んで朋美さんに伝えたかったテルオさんは、酒を大量に飲むようになり、頻繁に病気になり、2007年に72歳で亡くなった。

松本氏は2018年7月に63歳で死刑執行された。

ヨーコさんは今も定期的に息子の墓参りに通っている。「決着をつけたいと思っても、終わりがありません。息子の同級生を見ると、もし生きていたならどんな人生を送っているのだろうと考えてしまいます」とヨーコさんは言う。

13人が処刑された

松本事件では、当初、当局に事件を通報した河野義之氏が誤って容疑者とされた。彼の妻、河野澄子さんは2008年8月にサリンの後遺症で亡くなり、命を奪われた8人のうちの1人となった。

この襲撃は、教団の道場建設をめぐる民事訴訟でオウム真理教に不利な判決を下す前に、長野地方裁判所松本支部の判事官邸を狙ったものと断定された。

教団創設者のほか、オウム真理教の元幹部12人が2018年7月に処刑された。



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