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元平和博物館館長、遺体を見ながら広島原爆から逃げたことを回想

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[1945年8月6日、原爆が炸裂し、西日本の都市が壊滅したとき、原田博史さんは6歳で、両親とともに広島駅で電車を待っていた。

彼のキャリアはこの事件と深く関わり、1993年から1997年まで広島平和記念資料館の館長を務めた。この時期は原爆投下50周年と、今日まで彼に後悔を抱かせている米国との物議を醸した合同展示会と重なった。

広島と世界が核時代に入った瞬間を振り返り、85歳の彼はこう語った。「最初は大きな光がありましたが、それがどのようにして現れたのか誰も知りませんでした。人々は自分たちに降りかかる恐怖を知りませんでした。」

1993年から97年まで広島平和記念資料館館長を務めた被爆者の原田博さんが、2024年6月4日に広島でインタビューを受けている。(共同)

原田さんによると、その瞬間、猛烈な熱気の中で、父親は本能的に自分の体を使って爆風から息子を守ったという。父親はほとんど無傷で衝撃を生き延びた。

「本当に奇跡だった。駅周辺にいたほぼ全員が即死した」と彼は語った。

原田さんは一瞬気を失い、意識を取り戻したときには、駅のメインビルは数少ない残った建物の一つであったものの、周囲の地域はほぼ破壊されていた。

「それがなかったら、私たちは直接被爆していたでしょう。爆心地付近の熱は4000度くらいでした」と彼は言った。

炎が迫ってきたので、父親は逃げろと言った。彼らは廃墟となった街を東へ向かったが、生き延びるために急いでいたため、通りに倒れている大勢の人々の上を走るしかなかった。

「彼らが死んだかどうかは知らなかった。私たちは命を守るためにそうしたのだ」と彼は語った。「自分を守るためになぜ他人の体を踏みつけなければならなかったのかと考えると、今でも心が痛みます。考えたくもないし、話したくもないことです。」

原田さんは1963年に広島市役所に勤務する公務員となり、後に原爆の記憶を保存することに専念する広島平和記念資料館の館長に昇進した。

施設で展示されている遺物には、原爆による火傷で亡くなった子どもたちの衣服、犠牲者の写真や絵、その日命を落とした人々の所持品などがある。

しかし、在任中に米国で50周年記念展のコラボレーションが失敗に終わったことが、彼の心に重くのしかかっている。

何年もかけて練られたこの計画では、スミソニアン国立航空宇宙博物館に、広島にリトルボーイ原爆を投下したB-29爆撃機エノラ・ゲイを、爆発で溶けた物品や生存者の証言とともに展示する予定だった。

「(当時のマーティン・ハーウィット監督は)原爆投下でアメリカが勝ったというだけでは不十分だと考えていた。原爆投下によって地上で何が起きたのかを伝えることも必要だと考えていた」と原田氏は言う。「だが、米国では原爆投下を否定するものと受け止められた」

この計画は米空軍退役軍人団体から強い反発を招き、米議会議員からも反対の声が上がった。ハーウィット氏は結局1995年5月に辞任した。

結局、その年の6月に展示会は開催され、エノラ・ゲイの胴体が展示されたが、その破壊力の被害を受けた側がどのようなものであったかを伝えるために日本から寄贈された品々は一切展示されなかった。

原田さんは「本当に残念としか言いようがない」と語り、「博物館には何度も行きましたが、中を見て、栄光の歴史を伝えるための博物館だったと痛感しました」と付け加えた。

「原爆の影響について考えようという気持ちはなかった。何が起こったのかを伝えるためにまだやるべきことがあると感じたし、それができれば核兵器の廃絶につながるかもしれない」と彼は語った。

1993年から97年まで広島平和記念資料館館長を務めた被爆者の原田博さんが、2024年6月4日に広島でインタビューを受けている。(共同)

原田さんは広島の資料館で多くの要人を案内してきたが、1995年に当時の明仁天皇と美智子皇后にお会いしたことを懐かしく思い出している。見学中、両陛下は原田さんに向き直り、原爆投下の体験を語ってほしいと頼んだ。

「私が話し始めると、彼らは私に視線を向けたまま聞いていました」と彼は思い出した。「爆撃の恐ろしさを聞いて、彼らに強い印象が残ったと思います。」

約2カ月後、両陛下が原爆犠牲者を追悼するため広島に戻られた際、陛下は原田さんを訪ね、前回の面会のお礼を述べ、平和のために尽力する原田さんに、お体に気をつけてお過ごしくださいと促した。

「予想していなかったし、あの状況で天皇陛下に何と言えばいいのかわからず、言葉を失いました」と原田さんは語った。

厚生労働省のデータによると、原爆被爆者の数は年々減少し続けており、1981年3月のピーク時の37万2264人から、3月末現在で政府認定の被爆者数は10万6825人となっている。

核兵器のない世界の実現を願うことなく多くの人が亡くなり、ウクライナやガザ地区を含むさまざまな紛争が世界的な緊張の高まりにつながっています。

核弾頭の総数は減少し続けているが、運用可能な弾頭の数は増加しており、核保有国の米国とロシア、および事実上の核保有国である北朝鮮を含む9カ国で、1月時点で前年比9カ国増の9,585個と推定されていることが、ストックホルム国際平和研究所が6月中旬に発表した年次報告書で明らかになった。

「広島の原爆投下で約14万人の命が失われ、そのうち約7万人がまだ身元不明のままです。彼らのためにも、被爆者と世界中の人々が核兵器廃絶に向けて行動しなければなりません」と原田氏は語った。


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