第二次世界大戦中の米潜水艦による対馬丸の沈没は、多くの子供や大人が亡くなったことから日本の集団的記憶に刻まれているが、その後間もなく、同様の悲劇が別のあまり知られていない避難船にも降りかかった。
1944年8月、対馬丸は政府の避難命令に従って沖縄から長崎に向かう途中、日本の南西部のトカラ列島付近で魚雷攻撃を受けた。 1か月あまり後、日本帝国が米国による近隣の琉球列島への侵攻の準備をしていたとき、武州丸は同じ列島沖で沈没した。
鹿児島県の徳之島では、乗客乗員154人の大半が命を落とした武州丸悲劇の追悼式が毎年行われており、関係者らは地元でもあまり知られていないこの事件を忘れてはならないと決意している。
2024年9月、鹿児島県徳之島で避難船武州丸の悲劇を紙芝居で語る幸田勝弘さん(編集専用)(共同通信)
武州丸避難を顕彰する会の代表幸田勝弘さん(73)が制作した紙芝居では、船が海底に沈む前に恐怖に取り憑かれパニックに陥った乗客の様子が追体験される。
同協会は犠牲者を追悼するため、毎年9月に徳之島町の慰霊碑前で「平和の夕べ」を主催している。
地元の記録によると、武州丸は徳之島からの避難者を乗せて1944年9月25日に奄美大島の港を出港した。その夜遅く、県本土に向かう途中で沈没した。
2024年9月に鹿児島県徳之島で起きた疎開船武州丸の悲劇を追悼する行事で平和を誓う学生たち(社説のみ)(共同通信)
6人が救助されたが、15歳未満の子供77人を含む148人が死亡した。しかし、正確な死傷者数は乗組員を含めて182人に達すると考えられており、まだ確認されていない。
武州丸の沈没は、1944 年 8 月 22 日に発生した、推定 1,788 人の乗客を乗せた対馬丸が魚雷で撃たれ、780 人の学童を含む 1,500 人以上の乗客と乗組員が死亡した事故によって影が薄くなりました。
どちらの場合も、日本軍は家族や生存者が事件について話すことを禁止する緘口令を敷いた。しかし、戦後教科書などに載った対馬丸に比べると、武州丸の知名度は低い。
学校職員だった耕太さんは、2006年頃から武州丸事件の関係者の家族への聞き取りを始めた。彼らの証言を後世に残すために映像と音声を記録した。
避難船武州丸の日付不明の写真。 (共同)
新聞記事で事件を知り、家族の高齢化による活動の停滞に懸念を抱き、行動を起こした。
「戦争を知らない世代でもこの物語は語り継がれる」と語った。
彼は、沈没の数少ない生存者の一人であることに対して「遺憾の意」を表明した特に一人の人物を決して忘れないだろう。
「平和の夕べ」には地元の小中学生も参加し、平和の大切さを考える機会となっている。
今年参加した上原豊子さん(76)は「対馬丸に比べ、武州丸の悲劇は地元住民にもあまり知られていない。悲劇を後世に伝えなければ、後世に残らない。」と語った。命を落とした子どもたちは決して知られることはないでしょう。」
これらの集団避難に関連した悲劇的な出来事は過去になりつつあるかもしれないが、政府の防衛力強化と地域避難計画に対する懸念の中で、コタのような人々にとっては依然として頭の中にある。
2024年9月、鹿児島県徳之島で避難船武州丸の犠牲者を追悼するイベント「平和の夕べ」で演説する幸田勝弘さん(手前)(編集専用)(共同通信)
戦争当時、米軍は補給路を遮断するために軍民問わず日本の船舶を攻撃し、沖縄周辺の海は「戦場」と化した。
現在、日本政府は、近くの台湾島への中国侵攻の可能性に備えて、この地域での避難計画を策定している。計画では、沖縄県の先島諸島から、日本の主要4島の最南端である九州各県と山口県に約12万人を避難させることを想定している。
80年前の1944年7月、サイパン陥落後の政府は、沖縄を含む南西諸島での戦闘に備え、沖縄県民ら約10万人を本土や当時日本が統治していた台湾へ疎開させることを決定した。続く数カ月間、対馬丸と武州丸は米軍の攻撃により破壊されることになる。
幸田氏は「戦争が起きたら島々を避難させることは不可能だと思う。本土防衛のために南西諸島は再び犠牲にならなければならないだろう」と地域での新たな紛争の現実に警鐘を鳴らした。 」
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